ジェイコブ・プラッシュ
モリエルミニストリーズ創設者
ジェイコブ・プラッシュ (Jacob Prasch)
アメリカで生まれ、大学時代の1972年にジーザス・ムーブメントを通してニューヨークで救われる。アメリカとイスラエルで科学を専攻し、後にロンドン・バイブルカレッジにて神学を、ケンブリッジ大学にてユダヤ教を学ぶ。大学院の研究では新約聖書が用いるユダヤ人のミドラッシュを学び始め、最初の研究をティンダルハウスにて行っている。現在アメリカにて博士号を取得中。ジェイコブは「European Fellowship of Churches and Ministers」(ヨーロッパの教会と奉仕者の協力団体)や「Full Gospel Fellowship of Churches」(アメリカに拠点を置く保守的なペンテコステ系教会のネットワーク)から按手を受けた奉仕者である。9年間イスラエルにて信徒伝道者として奉仕した。「Ex-Catholics for Christ」(カトリックから救われた信者の団体)の創設者の一人であり、イギリスにおけるペンテコステ系のユダヤ人伝道者としてはおそらく、唯一ヘブライ語に堪能な人物である。イギリスのミッドランド・バイブルカレッジ、ウルバーハンプトンにてユダヤ・キリスト教神学を教え、『Grain For The Famine(飢きんのための穀物)』『More Grain for the Famine(飢きんのための多くの穀物)』『The Final Words of Jesus and Satan’s Lies Today(イエスの最後の言葉と現代にあるサタンの嘘)』『Israel, the Church and the Jews(イスラエル、教会とユダヤ人)』などの本を著す。妻パビアと、ガラリヤ生まれでイスラエル系ユダヤ人信者であるバトミエルとエリ・アミを家族に持つ。
ジェイコブ・プラッシュの証
『私は若いころ、証明できないものを信じることはありませんでした。そして宗教をただの“詐欺”だと考えていました。基本的に私はそのころマルクス主義者で、宗教は人々を操り、コントロールするものだと思っていたのです。ローマ・カトリックであれ、プロテスタントであれ、ユダヤ教であれ、自分が触れたどんな形の組織的な宗教でも私は嫌っていました。それが何であれ、ただ人の心や思考をコントロールするためのいんちきだと思っていました。なぜなら人は死の恐怖をやわらげることや、あの世についての無知を補う必要があると思い、喜んで“製品”を買うからです。「こちらの製品を買ってください。カトリックになりましょう。プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒になりましょう。何にでもなれます」これが私のかつての宗教観でした。また率直に言うと今も変わっていないというのが本音です。
十代のころ私はある考えをもっていて、イエスはその時代・文化における神の預言者また教師であって、モーセもその時代・文化におけるひとり、ブッダもその時代・文化におけるひとり、ムハンマドもその時代・文化におけるひとり、そしてビートルズやボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックスが私の時代・文化における預言者、教師だと思っていました。
私が何かを信じているとしたら、そのようなものだけでした。私は人生や真実、神などの意味を多くのおかしな方法で探ろうとしていました。1960年代の多くの人と同じように、私は霊的な世界に入り込むためにLSD(幻覚剤)を飲み、神と交わりを持とうとしました。私は幻覚剤を頻繁に使っていました。また私はオカルトが科学的に調査されるべきだと思い、そのため化学物質を使いました。私は薬物で実験をし始め、それはすぐに広範な研究プロジェクトとなりました。しかし、私は証明できるもの以外を信じようとはしませんでした。
私は1960年代に崩壊した若者文化を目の当たりにしました。アメリカはベトナム戦争に参加していて、同じ世代の多くの人は政府の偽善と腐敗を目にしていました。私たちは市民権のため、また徴兵制、政府のベトナム戦争参加中止のためのデモ行進を行いました。しかしそこで私が見たのは、権力層の代わりとなるはずの若者文化が、権力層と変わらないくらい偽善的で腐敗していたことでした。ある点においては権力層よりひどかったのです。そこにあったのは愛や平和ではなく、性病と、薬物売買でお金をだまし取る人たちでした。これが私たちの若者文化のたどった道でした。
なので、私はヒッピー文化に大いに幻滅して、この現状を説明するものが何かあるはずではないかと考えるようになりました。なぜ歴史は悪循環を繰り返すのか。なぜそこから抜け出す方法がないのか。またなぜすべてのものが自然と堕落しているのか。科学の世界、物理学、化学、生物学にはエントロピーの法則(無秩序の増加)があり、なぜ社会と政治運動にもエントロピーの法則が働くのかと考えていました。
私はよくマリファナを吸いながら、テレビでビリー・グラハムが出ているのを見て、彼を罵っていました。それはビリー・グラハムがニクソン大統領とゴルフをしていたからです。そのあつかましさが私は嫌いでした。それにもかかわらず、彼の話す内容を聞いたとき、ほとんど信じたような状態でベッドに入りました。
ビリー・グラハムが“真理”について話していて、イエスが“わたしが真理です”といかに言われたかを説明していたのを思い出します。イエスは「わたしは真理がどのようなものか知っている」とか、「わたしと共に来れば、真理を見出す」とは言われませんでした。イエスはただ「わたしが真理である」と言われたのです。どういうわけか、ビリー・グラハムの言ったことは私に衝撃を与えましたが、彼が組織の一員だったため、そのことをビリー・グラハムから受け入れることはありませんでした。
あるとき私はグリニッチビレッジで薬物を売っていました(そのころ大学生で科学を勉強していました)。そこでジーザス・ピープルという、救いを経験したヒッピーたちに出会いました。私はタバコを手に持って歩いて行き、その一人に「おい、そこのあんた、火持ってるか」と聞きました。その人はマッチは持っていませんでしたが、他の光を放つものを確かに持っていたのです。そこでその人は私に福音を説明したのです。信じられないような話ですが、私は“神の子たち(The Children of God)”というグループを通して救われました。
その後、私はまた他のおかしな団体に顔を出すようになりました。そのころ最初の数年間の私はとても不安定なクリスチャンで、その大きな理由は私が属していた不安定なグループのためでした。その多くがカルト団体になってしまいました。
結局、後にジューズ・フォー・ジーザスという団体に関わるようになって、私は信仰的に安定しましたが、これはまた別の話です。
私はそのジーザス・フリークたち(麻薬から救われたヒッピーたち)と出会い、聖書に書いてあることについて見ていきました。そしてこのことが私を大きな疑問に引き込んだのです。私は、旧約聖書が新約聖書の成立する数百年前に書かれたということを、考古学から立証することができました。それは確実に言えることだったからです。しかし今日“ニューエイジ”哲学と呼ばれるもののすべて、私が興味を抱いていたノストラダモスや「チベット人の死者の書」、ヒンドゥー教の「バガヴァッド・ギーター」などの預言の考えは、いつも解釈よって違っていました。つまり彼らの預言はどのように解釈をするかによって決まるのです。
しかし聖書ははっきりと語っています。タナハ(旧約聖書)はイエスに関して非常に多くの預言を記しています。想像してみてください、出来事が起こる800年も前に、その人が生まれること、どこで生まれるか(ベツレヘム)、その先祖は誰であるか、また十字架刑で死ぬこと(その地域では十字架刑が行われる600年も以前に)、その友によって裏切られること、友が裏切りのために受ける値段、着物のためにくじをひくこと、十字架上にいるときに酢を飲まされること、また異邦人の国々がユダヤ人の神を信じるように導くことを誰が予測できたでしょうか。
そのようなことが聖書の中に膨大にあり、イエスが生まれる何世紀も前に書かれたことを私はイエスが生まれる前に書かれたと証明できました。私は大学で勉強した“有限数学”を聖書の預言に適用してみました。すると聖書の預言には偏差値のバラつきが無いことを発見しました。聖書は、理論を検証するときや、科学で仮定を立てるときに使われるような論証にも耐えうることができるのです。これは他の宗教に関していえることではありません。すべて他の宗教は基本的に盲目の信仰です。聖書はそうではありません。
預言者イザヤは言いました。
『さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のよ うに赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ1章18節)
神は人と論じ合おうとしておられます。それが私が最初に気づいた福音と宗教との違いでした。すべて宗教は盲目の信仰に基づいていますが、イエスの主張と福音書の証言は合理的です。それらは調べることが可能なのです。そして私はそれが事実であるかを調べました。
初代教会に対する最大の敵は、ローマ政府とユダヤ教の宗教機関でした。もしイエスがメシアだったなら、なぜ多くのユダヤ人がイエスを受け入れなかったのかというのが私の大きな疑問でした。後に知って驚いたことですが、現実に途方もなく多くのユダヤ人が1世紀と2世紀においてイエスを受け入れていたのです。私はローマ人の歴史家であるタキトゥスやスエトニウスが初期のキリスト信者について書き残しているものを読みました。
同じ場所や同じ時期ではなく、何百ものユダヤ人が、ある者は中東で、ある者はトルコ、ある者はイタリヤ、ある者はギリシア、またある者は北アフリカで、とても残虐な死を受け入れ、家族が殺されるのを見ながらも、処刑された後生きておられる主イエスを見たと言って最期のときに証言していたのです。テキサスにいるおかしな人デイビッド・コレシュやガイアナ(南米の国)の密林にいる人なら、ひとつの場所にいる多くの人たちを同じ時期に死に追いやることはできるでしょう。しかしさまざまな場所にいる何百もの人がみな「私たちはこの人が生きているのを見た」と言って命を失っていったのは前代未聞の出来事です。
もうひとつの敵対者はユダヤ教のラビたちでした。私はタルムード以前のラビが書いた書物を調べました。それはラビたちがイエスを信じないようにユダヤ人を説得している書物です。それが書かれたのは非常に多くのユダヤ人がイエスを信じていったからです。そこにはイェシュ(イエスに対する軽蔑的な呼び名)がほかのどのラビよりも多くの奇跡を行い、病人を癒し、死者をよみがえらせ、イエスの名によって弟子たちが同じ奇跡を行ったこと。また十字架に付けられた後、死者からよみがえり、オリーブ山から天に昇っていったことが書いてありました。これはクリスチャンが書いたものはなく、信じていないユダヤ人が書いたものなのです。これは人にイエスを信じないように説得するために書かれた書物なのです。
誰かの支持者がその人について書くならまだしも、敵対している者が書いたことは全く違った意味を持ちます。
あなたは私を“証拠主義者”と呼ぶことができるでしょう。イエスと福音書、また聖書の主張の客観的で理性的な証拠だけに基づいて考えると、私にとってそれを信じるより、信じないことのほうが難しくなってきました。同じように聖書の預言と、今日の世界や中東で起こっていることを見比べると、それは聖書の予告した通りでした。聖書は驚くほど正確だったのです。そうです、このために信じるより、信じないことのほうが難しくなりました。私は心で信じる前に、頭の中で信じました。
私は前もって真理を理性的に、頭の中で納得していなかったなら、心に福音を受け入れることはなかったでしょう。私にはたくさんのオカルトの経験があり、悪魔的な力とも接触することがありました。私はまったく初めて会う人でも、その人がどの星座のもとに生まれたかを言い当てる能力を持っていたのです。またタロットカードを読んでもらいに、まじない師のところへ通っていました(その人の夫と麻薬の売買をしていました)。ある日、その人がタロットカードを読んでいると、私がクリスチャンになることを読み取り、正気を失い、叫んで言いました、「戻ってきて、私を火あぶりにしないでおくれ!これが起こったときに戻ってきて、火あぶりにするのだけはやめておくれ!」
ここでは話しませんが、私には幽体離脱の経験もありました。このように多くのことが起こり始めたのです。最終的に私はニューヨークで次のことを言う状態になりました。「イエスさま、もしあなたが実在していて――車のダッシュボードにあるようなプラスチックじゃなく(カトリック教徒の中で好まれているプラスチックの人形)――この本が真実なら、私の内側に入ってきてそれを教えてください」
私はそう言い、本気でそう願いました。すぐさま私は頭を何かで激しく打たれたように感じました。イエスを受け入れるのは感情によってではなく、信仰によりますが、その出来事を考えてみると、私がひどく薬物とオカルトにはまっていたため、神は「こいつは頭がおかしくなっているから、一発電撃を落としてやらないと分からない」と言っていたのかもしれません。
ともかく、私にとってイエスを心に受け入れることはそのようなことでした。イエスは私の人生に入ってこられ、私は持っていた麻薬を窓から捨てました。そのときから私はイエスさまとともに歩んでいます。
まとめ
福音と宗教の違いの3つある違いのひとつ目は、イエスの主張は理性的であり、知的に検証することが可能であるということです。盲目の信仰ではありません。すべて他の宗教は盲目の信仰を必要とします。名前だけの“クリスチャン”やクリスチャン・サイエンス、ローマ・カトリックがそうです。
ふたつ目の違いは、他の宗教は人間が基本的に善であり、兄弟愛を建て上げることに集中すべきだと主張することです。イエスは人間が基本的に堕落しているので、神の国を建てなさいと言います(人間が基本的に堕落しているという事実は、“~主義”と呼ばれるものすべてがなぜうまくいかないかを説明しています。これは日々の現実において確認できるものです)。
最後の違いは、宗教は人が神に至ろうとする方法であるということです。福音は神が人に向かって身をかがめてくださるものです。イエスさまは私たちが自分たちのためには決して出来ないことをしてくださっています。』

